sutomajo's blog

可愛い女の子のブログです

痴漢を見た

痴漢を見た。

僕は随分背の高い方だと思っていたが、男はその僕が見上げるほどの長身だった。スーツの上から薄汚れたブルーグレーのジャンパーを羽織っていて、途中まで禿げ上がった頭はボサボサだった。電車の揺れに合わせて、女子高生の下腹部に正面から右手の甲を当てているように見えた。

その女子高生は、僕がその車両に乗った時、ハッと目を引かれた存在でもあった。赤いマフラーがとてもいいと思った。顔は髪で隠れて見えなかったが、マフラーとコートとリュックサックと、混み始めの車内で見える範囲の色遣いはとても華やかに見えた。ドアが開いて直ぐ右(彼女は身体を左斜め前につんのめらせる形でポールに寄りかかっていた)に彼女を認めた僕は、回りこんで彼女を右斜め後ろから眺める形で陣取った。

その時、スッと違和感を感じさせる動きで彼女に張り付いたのがその男だった。男は背後で閉まっていくドアに背を持たれ、すぐに右肩に体重を乗せる姿勢、彼女に正面を向く姿勢に移った。僕は男を不審がった。既に男の右手はその甲を彼女の下腹部に押し当てていた。痴漢の意図の無い者の腕が、こんな風に動くわけがない。僕は「痴漢だ」と思った。

僕は彼女の表情を見ようとしたが、髪で隠れて見えない。怖がっている様子はなかった。それどころか、何も気づかずスマホの画面に熱中しているようにも見えた。彼女は股下までの厚手のコートを着ていたし、この混み具合ならそれと気づかないということもあるのだろうかと思った。(だからと言ってあの男が許されるわけはないのだが、なぜかそれは僕を安心させた。)

彼女の目の前でドアが開いた。男は手をひっこめ、降りる者に道を譲った。そこで乗って来た男が僕と彼女との間に収まり男の手元の様子が分かりづらくなったが、僕を驚かせたのは彼女がそこで降りてしまわないことだった。何故降りないのだろう。まさか本当に痴漢と気付いていないのだろうか。それとも本当に痴漢ではなく、僕の勘違いだったのだろうか。その電車は快速電車で、その駅からは3駅を通過し、しばらく逃げるチャンスを失う。そんなことは彼女だって分かってるはずなのに…

電車が出ると、以外にも男はあっさりと彼女に背を向け目を瞑ってしまった。左肩でドアにもたれる姿勢だ。僕は男のボサボサな髪と薄汚れたジャンパーを観察した。袖から見えるスーツは千鳥格子のゴージャスなもので、ジャンパーを脱いだ姿が全く想像できなかった。彼女はというと、相変わらず同じ姿勢で、顔は髪で隠れ、マフラーで口元を隠し、スマホの画面を熱心に叩いていた。

僕は冤罪という言葉を知っていた。痴漢の冤罪と言えば、何年か前それを苦にして自殺したサラリーマンがいたことも知っている。しかし、この男は明らかに確信犯、故意犯だ。痴漢現場に遭遇したのはこれが初めてだった。僕は本来なら、それまで痴漢現場への遭遇に際して取るべき行動として以前に想像していた通り、痴漢だ、と叫んで彼女との間に割って入り、男の腕を掴んで持ち上げ周りの乗客の同意を求めるということをすべきだった。しかし今となっては現行犯でもないし、彼女も変わり無しだった。これ以上男が何もしてこないなら、こう言っては悪いが、彼女にとっても大した傷は無いだろう。どうせ僕は次の駅で降りるのだ。彼女も早く降りてしまえばいいのに――そう思ったまさにその時だった。

男はグルンと振り返り、また彼女の方に腕を伸ばし始めた。次の停車駅まであと一駅分もないこの段になってである。やはりこいつは痴漢だ。僕はよっぽど声を上げようと思った。しかし声が出ない。いざという時になってどうしたことだ。僕はとっさに彼女の方を見た。しかしこの時はどういうわけか、相変わらずスマホを凝視している彼女の後頭部ではなく、彼女の、じっと握られたままのスマホの「画面」に目が行った。 

「こわい」 

それは明らかに彼女からのメッセージだった。その大きな文字の下にはいくつもの予測変換が表示されたまま放置されていた。彼女は目の前の痴漢が恐ろしくて電車を降りることさえできないでいたのだ。

「あああ・・・」僕は声にならない声を上げた。僕はその場において、彼女のメッセージを正確に理解した唯一人の人間だった。僕が彼女を助けなければ、僕が声を上げなければ、彼女はきっと最後までこの痴漢から逃げられないだろう。僕はよっぽど、よっぽど声を上げようと思った。上げようと思って、男の顔を真正面から見やった瞬間、……僕の心にも、その痴漢に対する恐怖が込みあがってきた。

声が、出ない。脚が、震える。やがて電車は停車し、僕の後ろでドアの開く音がした。僕は後ずさった。よっぽど、今すぐにでも振り返って声を上げ、せめて駅員を呼びつけるだけでもしようかと思った。無駄だった。あの男の顔が頭によぎるだけで、僕の心はあの男への恐怖に支配された。僕は俯いたまま振り返り、電車を後にした。彼女の降りてくる様子は無かった。…