sutomajo's blog

可愛い女の子のブログです

童貞だけどミソジニーについて語る

 今日、学校の帰りに地元の駅前で、外人の三人組が音楽を奏でながら歌を歌っていた。両脇の女はインド人、真ん中の女は白人だが三人とも似た民族衣装を着ている。真ん中の女はボンゴのように大きな太鼓を抱えていたが、非常な長身なのであまり重そうにも見えず、緩やかな衣装を纏った長い手足と相まってこれがなんとも様になった。三人は歌いながら揃って左右にステップを踏む。私は彼女らのような路上演奏者に付き合うのが好きなので、わざとらしく驚いたような表情を作って歩を緩めた。当然これは、私がそうすることによって聴衆の一人も無しにさみしく歌っていた彼女らに「客が来た」という認識を与えるだろう、と目論んでの事だった。

 案の定彼女は私に気付いた。彼女とは真ん中の白人女の事だ。こうして正面に立つと彼女の長身がよく分かる。「彼女が私に気づいた」。私の目論見としては、こうして私一人に凝と見られているという認識を彼女が持った今、この認識を意識することで彼女の演奏が狂わされるか、或いはこの認識を意識せぬよう意識することで彼女の演奏が通常の彼女の演奏と違うものになるかする様子を観察出来ることだった(私が路上演奏者に付き合うのが好きと云ったのはこの意味においてである)。

 だから彼女が次に取った行動は私を仰天させた。なんと彼女は、さぁ私と目を合わせたかと思ったら、あろうことか演奏を中断し、この私に向かってそっくり歩いてきたのだ。「(な、なんだ。)」私はその時初めてその女の顔を凝視し得た。この距離になって初めてわかる。まずこの女は私より背が高い。彼女の背の高いのは一目見て良く分かっていたがそこに私の身長と比べる発想は無かったのである。そして次に、いやこれこそが最も重大な事件だったのだが――彼女の目が、とても大きく、そして青かったのである。私はその瞳に全く呑まれていた。正確にはターコイズブルーである。彼女が私に何か話しているのは分かった。しかし目が離せない。他の事を考えられない。考えたくないと思う。この女の瞳、目鼻立ち、額……全く、白人とはかくも小顔なものなのか。背が高い、手足が長い、もちろんそれは事実だが、このボンゴのように大きな太鼓を抱えてなおこのまとまりを保つ秘訣はこの押しつぶしたような小さな頭蓋骨にあると思われる。

 …と思っていたのは表の私においてである。裏の私においては、この白人女が私に向かって歩いてきた時点で既に、フン、またこのパターンかと笑っていた。裏の私は表と違って彼女の言うことを聞き流しはしない。彼女の寄越す何やらチラシも受け取れば、直ちにざっと目も通す。なになに……ハッ、やはり宗教の勧誘か。女は言った。「ニチヨウビ、○○デ、インドのオマツリ、キマセンカ?」受け取ったチラシによると、歌ったり、踊ったり、食べたりするイベントらしい。インド?ヒンドゥー教か?まぁ怪しい新興宗教ではないのかもしれん。ここいらではインド人は珍しくない。行けばこの女もそこにいて、今と同じように歌って踊っているのだろう。しかし私の彼女に対する蔑視は既に引き返せないところまで来ていた。この宗教女め。

 一方で表の私は彼女の美しさに心底感動していた。ただ白人というだけなら毎日目にかけているが、彼女にはただ顔立ちの美しさだけとも違うもの、つまり私のミーハーな異国趣味に直截訴えてくるものがあった。すなわち、緩やかな民族衣装であり、訛りの日本語であり、青い目である。嗚呼…

 漸く裏の私に追いついて、私がいくらか返答めいたものを返し始めた途端、そう、途端である――私は何か別の物に操られたように、ぺこぺこと頭を下げてハイ、ハイと頷き、インドのお祭、ハイ、ありがとうございますと云って去ってしまった。その去ってしまうまでの約十秒の間、私は顔を上げ彼女の顔の方を向きはしても決して焦点を合わせず、あたかもただ正当な日本語における意思疎通の作法に準じることのみを目的とした機械のようになっていた。

 結局私は初めから、あるいは彼女を視界に認めるずっと以前から、彼女の事を軽蔑していたのである。路上演奏者に付き合うのが好きだと云った。これが蔑視でなくてなんだろう。私の異国趣味に訴えかけると言った。これが蔑視でなくてなんだろう。そして第一に、宗教女を罵ることは異国趣味を罵るも同様であるのに、それを表と裏などという言葉を使って、それは文字通り同じコインの裏表である滑稽さにも気づかないで、なんと愚かな屁理屈だったことだろう。異国趣味という観点からわたしは宗教女に欲情もしよう。あの青い目はそれだけ神秘だ。ならばその逆もまた然り、異国趣味ほどミーハーな、その無知を露呈する趣味は無い。

2013/11/01